2024年前期の朝ドラは三淵嘉子さん(旧姓:武藤)をモデルにした「虎に翼」です。三淵嘉子さんは明治大学卒業で日本初の女性弁護士の1人であり、初の女性判事及び家庭裁判所長です。
生まれは、大正3年(1914年)11月13日で昭和59年(1984年)5月28日に亡くなりました。70歳でした。
「虎に翼」前に放送していた「ブギウギ」の笠置シヅ子さんと生まれが同じですので時代背景は戦前から戦後の昭和を描く朝ドラです。
三淵嘉子の司法の歴史と朝ドラ「虎に翼」の「主人公猪爪寅子」のあらすじとをパラレルにリンクさせながら紹介していきます。
⇒伊藤沙莉が2024年前期の朝ドラ「虎に翼」で演じるヒロイン猪爪寅子とは。
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虎に翼の「猪爪寅子」のモデルは三淵嘉子。
三淵嘉子は台湾銀行勤務の「武藤貞雄と母ノブ」の長女として、シンガポールで生まれ、シンガポールの漢字表記に用いられた「嘉」から「嘉子」と名付けられました。
三淵嘉子の履歴。
嘉子は、東京府青山師範学校附属小学校を卒業し、
- 昭和7年(1932年)3月:東京女子師範学校附属高等女学校(お茶の水女子大学付属高等学校の前身)を卒業。
東京女子高等師範学校附属高等女学校、明治大学専門部女子部を経て、
- 昭和10年(1935年):明治大学法学部に入学。
- 昭和13年(1938年):高等試験司法科試験に合格。
- 明治大学を卒業。
- 昭和15年(1940年):明治大学同窓の中田正子、久米愛と共に日本初の女性弁護士となります。
- 昭和16年(1941年):武藤家の書生をしていた和田芳夫と結婚する。(召集先の中国で発病)
- 昭和20年(1945年):長男や戦死した弟の妻子とともに福島県坂下町へ疎開する。
- 昭和21年(1946年):和田は帰国後長崎の陸軍病院で病死。
- 昭和22年(1947年):裁判官採用願いを司法省に提出。司法省民事局局付を経て最高裁判所発足に伴い最高裁民事局局付、家庭局創設に伴い初代の家庭局局付に就任。
- 昭和24年(1949年):東京地裁判事補となる。石渡満子と共に、初の女性裁判官に就任。
- 昭和27年(1952年):名古屋地方裁判所で初の女性判事となる。
- 昭和31年(1956年):裁判官の三淵乾太郎(初代最高裁長官だった三淵忠彦の子)と再婚し三淵姓となる。
- 昭和31年(1956年):東京地裁判事となる。
広島と長崎の被爆者が原爆の責任を訴えた「原爆裁判」を担当(裁判長古関敏正、三淵、高桑昭)。
- 昭和38年(1963年)12月7日:判決は請求棄却とするも日本の裁判所で初めて「原爆投下は国際法違反」と明言した。
- 昭和38年(1963年)より昭和47年(1972年)まで:東京家庭裁判所判事。少年部で計5000人超の少年少女の審判を担当した。
- 昭和47年(1972年):新潟家庭裁判所長に任命され、初の女性家庭裁判所長となる。のちに浦和家裁、横浜家裁の各所長を務めた。
- 昭和54年(1979年):退官。
- 昭和55年(1980年):再び弁護士となる。
昭和59年(1984年)5月28日:骨癌のため死去(69歳)。
寅に翼のキャスト一覧はこちら。
三淵嘉子の女学校時代から大学入学。
三淵嘉子は女性弁護士第1号にして女性裁判官第2号となります。
武藤貞雄の長女としてシンガポールで生まれた嘉子は父が東京勤務となると一家で東京に転居しました。
嘉子は4人の弟たちから慕われる活発な少女へと成長していました。昭和2年(1927年)、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大付属高)に入学します。
女学校でも嘉子は人気者でした。宝塚歌劇団のファンでダンスが得意な嘉子は謝恩会で「青い鳥」のチルチルを演じ上級生のアイドル的存在になっていました。
嘉子は女学校から、明治大専門部女子部法科(3年制)に進み、明治大法学部へ編入します。同大は女性の法学教育機関の草分けでした。
女学校の卒業。
嘉子は父の勧めもあって法律を学ぶために進学を決意します。卒業生の多くは花嫁修業に専念し、結婚に備える時代でした。
母のノブは嘉子の決意を知って「これでお嫁にいけなくなった」と泣き出したそうです。周囲からみれば、せっかくつかんだ花嫁切符を手放すようなものですからね。
「虎に翼」第1週の寅子の見合い。
「虎に翼」のストーリーは昭和6年(1931年)から始まりました。主人公の寅子は女学校に通い、女性として両親から見合いの話が持ち上がっていました。
当時の常識は女性は見合い結婚し子供を産み育てることでした。しかし寅子はその常識に疑問を抱いていたのです。
昭和6年(1931年)初夏。女学校の最終学年で学ぶ17歳の猪爪寅子は、とあるレストランでお見合いに臨んでいました。
帝都銀行に勤める寅子の父である直言は、
この子は五黄の寅の生まれでしてね。だから寅の子と書いて、ともこ
と寅子を紹介しますが、肝心の寅子は元気がありません。見合いは3度行いますが全て破談でした。
そんな中、ある日、寅子は書生で寅子の家に下宿している優三にお弁当を届けることになりました。優三は夜間大学で法律を学んでいます。
そこで、大学の教授である穂高と出会います。穂高は女性が法律を学ぶ場所があることを寅子に教えます。ここから寅子は法律の道に進むのです。
⇒2024年前期朝ドラ「虎に翼」第1週「女賢しくて牛売り損なう?」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
三淵嘉子は明治大学専門部女子部法科に入学。
昭和7年(1932年)、嘉子は女性に門戸を開く数少ない大学だった「明治大学専門部女子部法科」に入学します。
この時点では、女性は裁判官・検察官・弁護士になるための高等試験司法科を受験する資格がありませんでした。
しかし、入学の翌年に弁護士法が改正され、弁護士資格だけは女性にも認められるようになりました。
「虎に翼」第2週の寅子は。
寅に翼の寅子は昭和7年(1932年)春。晴れて明律大学女子部に入学します。入学式当日、式場には60人の新入生が集まっていました。
そして新入生代表として登壇したのは女子の憧れの的である華族の桜川涼子でした。
寅子はここで集う仲間たちの生活背景を知ることになります。
⇒2024年前期朝ドラ「虎に翼」第2週「女三人寄ればかしましい?」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
「寅に翼」の桜川涼子は中田正子か?
第2週「女三人寄ればかしましい?」で登場する桜川涼子。
⇒桜井ユキ(キャスト)が朝ドラ「虎に翼」で演じるは“桜川涼子”そのモデルは。
「寅に翼」の山田よねは久米愛か?
涼子と同じく第2週「女三人寄ればかしましい?」で登場する山田よね。
⇒土居志央梨(キャスト)が朝ドラ「虎に翼」で演じるは“山田よね”そのモデルは。
明治大学女子部。
昭和8年(1933年)2年生。
「寅に翼」第3週の寅子は。
2年生になった寅子は女子部存続の危機を「明律祭」で法廷劇を行うことで宣伝にもなると考え実行します。
そこで起きる様々な出来事は…。よねの内情も描かれる第3話です。
⇒2024年前期朝ドラ「虎に翼」第3週「女は三界に家なし?」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
明治大学法学部入学。
女子部を卒業し、明治大学法学部に進んだ嘉子は、男子学生と一緒に学びます。ただ、一緒に行動することはなかったようです。
もちろん、お互いに関心はあったでしょう。でも当時のことですから、お話しすることはないと思います。
女子学生たちは教室の前の方に集団で席を取って、授業を受け、授業が終わっても、自然と女子だけで行動するようでした。
大学で中心となっていたのは、やはり男子学生でした。人数の少ない女子学生は、男子学生の勉学の場をお借りしているような雰囲気だったとも、嘉子は後に語っています。
「寅に翼」第4週の寅子は。
昭和10年(1935年)2年前に弁護士法が改正され、女性も高等試験に合格すれば、弁護士資格を取得することができるようになりました。
しかし、そこで猪爪家に事件が勃発します。それは通称「共亜事件」
⇒2024年前期朝ドラ「虎に翼」第4週「屈み女に反り男?」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
卒業時には法学部総代。
昭和13年(1938年)3月に明大法学部を総代で卒業します。
嘉子は高等文官試験司法科に合格。
昭和13年(1938年)前年に始まった日中戦争が激化する中、嘉子は超難関の高等文官試験司法科(現・司法試験)に合格します。
同じ明治大学出身の中田正子、久米愛も合格しました。そして、高等試験司法科に合格すると、弁護士試補としての1年半の修習が待っています。
嘉子は第二東京弁護士会に配属されました。
当時の試補は無給で、修習のために弁護士会に対して国から交付される経費の一部を、手当としてもらえる仕組みになっていました。
嘉子は、丸ノ内ビルヂング(丸ビル)に入っていた仁井田益太郎の弁護士事務所で修習しました。仁井田は裁判官・京都帝国大学教授・東京帝国大学教授を歴任した人物で、第二東京弁護士会の創立者・会長でもありました。修習のあいだ、討論の場で年上の男性たちに対して意見を言うことは、なかなかやりにくいことでした。いくら女性に門戸が開かれたといっても、社会的には女性に対して厳しい目が向けられている中で、嘉子も自然と遠慮しながら意見を述ベることが続きました。
3人は弁護士事務所。
一緒に合格した正子と愛の二人は第一東京弁護士会に配属されて修習しており、三人ともそれぞれ丸の内にある法律事務所にいました。
3人は丸の内の弁護士事務所で弁護士試補(研修生)として1年半過ごしました。昼休みには毎日のように集まってランチを楽しみました。
初の女性合格者の三人は切磋琢磨しながら友情は続きました。
正子は昭和14年(1939年)に中田吉雄と結婚し、夫とともに鳥取に移って弁護士として活動しました。
愛は日本婦人法律家協会の会長を長く務め、嘉子とも多くの場面で行動をともにしました。
嘉子は弁護士登録。
嘉子は修習を終え、さらに弁護士試補考試にも合格しました。そして、昭和15年(1940年)に弁護士登録します。
正式には、この段階で、初の女性弁護士が誕生したことになります。
嘉子は新聞に「女性弁護士誕生」と大きく取り上げられました。嘉子は「女性」を強調する報道に違和感があったと戦後になって振り返っていました。
3人の合格は、社会に出て仕事をしたいと考える全国の女性たちに力づけるニュースでした。
嘉子は引き続き仁井田益太郎の事務所で勤務することになり、主に離婚訴訟を引き受けて働き出しました。
弁護士としてのスタート切ることになった嘉子は26歳になっていました。当然、父と母は嘉子に結婚を勧めました。そして嘉子が選んだ伴侶は…。
さて、時代は中国との戦争が続いている中で、1941年12月に太平洋戦争が始まります。
戦時下では民事訴訟の数自体が大きく減り、嘉子は弁護士としての活動がほぼできない状態になっていきます。
嘉子の結婚。
嘉子が伴侶として選んだのは、一時武藤家に書生として住み込んでいた和田芳夫です。昭和16年(1941年)に和田芳夫と結婚します。
芳夫は明治大学の夜間部を卒業し、紡績会社で働いていました。結婚後1ヶ月後に太平洋戦争が始まりました。
戦争が続く中、国民は私的な争いを避けるべきだという風潮が強まったため、民事裁判は少なくなっていました。
弁護士としての嘉子の仕事は少なくなり開店休業となりました。
明大女子部法科の助教授。
嘉子は弁護士登録をするよりも前の1940年7月、明大女子部法科の助手となっていました。そして、1944年8月には助教授へと昇進しています。
嘉子のお子さんと夫。
嘉子は昭和18年(1943年)に長男・芳武を出産します。しかし、翌年には弟の一郎が戦死しました。
夫・芳夫が召集されると、嘉子は芳武を連れて福島県坂下町(現在の会津坂下町)に疎開し、この地で終戦を迎えます。
昭和21年(1946年)戦地で発病していた芳夫は帰国後に長崎の陸軍病院で亡くなりました。芳夫との再会は叶いませんでした。
さらに翌年には両親が相次いで亡くなります。息子と3人の弟を背負って、嘉子は立ち尽くすのです。
「寅に翼」では佐田優三。
仲野太賀さんが演じる佐田優三は第1週から登場します。
⇒仲野太賀(キャスト)が2024年前期の朝ドラ「虎に翼」で演じる“佐田優三”とは。
結婚生活はまずか5年間でした。
戦後の嘉子は。
裁判官採用願を。
嘉子は経済的に自立しなくてはなりません。
1947年に裁判官採用願いを司法省(現・法務省)に提出します。しかし、当時は女性が裁判官になることは認められていません。
それでも嘉子は諦めず、「男女同権の世の中になったのだから」と主張します。
「虎に翼」第1週の1話で。
第1話の序盤で、司法省人事課長になっていた桂場に寅子が会いに行きます。
⇒2024年前期朝ドラ「虎に翼」第1週「女賢しくて牛売り損なう?」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
裁判官採用。
嘉子は1949年に晴れて東京地裁民事部の裁判官(判事補)に任用されました。裁判官としても公正な社会の実現を目指します。
歴史的な判断。
1963年には歴史的な判断に深く関わりました。広島と長崎の原爆被爆者たちが国に補償を求めた民事訴訟で陪席裁判官を務めます。
原告の請求こそ認めなかったものの、「原爆投下は国際法違反である」との画期的な初判断を下したのです。
今より遥かに米国の影響力が強かった時代です。この判断が端緒となり、国は被爆者救済を始めたのです。
新潟家裁の所長。
1972年に新潟家裁の所長をなると、「家裁は人間を取り扱うところ。事件を扱うところではない」という名言を残します。
横浜家裁の所長。
1978年から所長を務めた横浜家裁では黒ずんでいた調停室の壁を明るいホワイトに塗り替え、絵もかけ、カーテンを新調します。
昼休みには廊下に音楽を流しました。深い悩みを抱えた人たちの心を少しでも和ませようという配慮からでした。