ブギウギのヒロイン「福来スズ子」のモデルは戦後の大スター「笠置シヅ子」です。
笠置シヅ子さんの歌謡の歴史と「ブギウギ」のあらすじをリンクさせながら紹介していきます。
さて、笠置シヅ子の曲をリアルタイムで聞いた人は今や少なくなりました。笠置さんは戦後「ブギの女王」の異名で一世を風靡した戦後最初の国民的スターでした。
当時は東海林太郎さんを代表に直立不動で歌う歌手が多いので多くの日本人は笠置が歌う「ブギ」はセンセーショナルだったと思います。
ブギウギ「福来スズ子」のモデルは笠置シヅ子。
笠置シヅ子さん(1914-1985)享年70。
躍動感あるリズム楽曲と、派手なダンスパフォーマンスを導入した革命的な歌手。
今では当たり前のエンターテイメントの世界ですが、戦後の荒廃した日本人の心に強く突き刺さる歌手であったことは事実です。
戦後まもなく授かった一人娘を抱えて舞台に立つ姿は、当時「パンパン」と呼ばれた街娼たちから絶大なる支持を得たと雑誌では伝えています。
「買い物ブギー」のヒット以降は、「ブギの女王」と呼ばれました。
しかし、ブギが下火になると歌手活動は行うことなく女優に転向します。そのとき、「どうぞ、ギャラを下げてください」と申し出たエピソードは有名です。
笠置シズ子の歌声を聞きたい昭和生まれのファンはこちら⇒決定盤 笠置シヅ子「ブギの女王」
笠置シヅ子の誕生。
笠置シヅ子は大正3年(1914年)8月25日に香川県大川郡相生村(現・東かがわ市)で生まれました。
生後間もなく大阪市福島区で米屋を営む亀井家の養女になります。
笠置さんは、自身が養女であることを知らずに育ち、自身の出生について知ったのは18歳の時でした。笠置さんの本名は亀井静子。
亀井家は大正7年(1918年)の米騒動で米屋を廃業し銭湯を開業しました。
朝ドラ『ブギウギ』鈴子の登場。
朝ドラ『ブギウギ』の花田鈴子の登場は、大阪の下町・福島にある銭湯「はな湯」からですね。
遊び人の父・梅吉としっかり者の母・ツヤそして個性的な常連客たちに囲まれてのびのびと育っていましたね。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第1週「ワテ、歌うで!」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第2週「笑う門には福来る」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
朝ドラ『ブギウギ』福原スズ子が誕生。
昭和2年(1927年)に小学校を卒業します。(鈴子:12歳)USKに入団し歌と踊りの世界に踏み出しました。
入団から6年後、スズ子は18歳になりました。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第3週「桃色争議や!」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
笠置シヅ子の出生の秘密。
笠置シズ子は大阪福島で銭湯を営んでいた父・音吉と母・うめのもとで育ちました。しかし、笠置の出生には秘密があったのです。
実は「音吉とうめ」は血のつながらない養父母だったのです。笠置がそのことを知ったのは、18歳のときでした。
朝ドラ『ブギウギ』福原スズ子の出生の真実。
スズ子達はストライキに入りました。その騒動が収まった時…。
10月第4週(23日~27日)20話
⇒朝ドラ「ブギウギ」第4週「ワテ、香川に行くで」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
10月第5週21話~22話(10月30日~31日)
⇒朝ドラ「ブギウギ」第5週「ほんまの家族や」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
笠置シヅ子の実父は。
香川県で生まれた笠置の実父は、笠置が生まれた翌年に25歳で病死しました。
まだ10代だった実母は乳の出が悪く、偶然近所に帰省中だった「うめ」にもらわれることになったのようです。
「うめ」は困っている人を見捨てることができない、義理人情に厚い女性でした。
その後、実父の友人だった戦後初の東大総長・南原繁から初めて実父の人となりや実母との交際のことなどを詳しく聞くことができました。
笠置シヅ子は30代後半になっていました。南原はその後、笠置の後援会長となって笠置を見守り続けます。
ブギウギ「福来スズ子」のモデルは笠置シヅ子。「戦前の活動」
大阪松竹楽劇部で初舞台。
卒業後、OSK日本歌劇団の前身である大阪松竹楽劇部に入り、「三笠静子」の芸名で初舞台を踏みだします。
- 昭和9年(1934年)(シヅ子20歳)
昭和9年(1934年)には、自らも出演した歌劇「カイヱ・ダムール(愛の手帳)」の主題歌として、日本コロムビアから「恋のステップ」でレコードデビューを果たします。
(作詞:高橋掬太郎、作編曲:服部ヘンリー)
- 昭和10年(1935年)(シヅ子21歳)
「笠置シヅ子」に改名します。
大阪松竹楽劇部を退団
- 昭和12年(1938年)
12歳で松竹楽劇部の門を叩いたシヅ子は、11年間の大阪松竹少女歌劇時代を経て、23歳にして新たな道を歩みます。
朝ドラ『ブギウギ』福原スズ子が大阪を離れる。
第5週「ほんまの家族や」の25話でスズ子と秋山の退団公演が行われまいた。趣里さんのブギウギ版「桜咲く国」をお聴き下さい。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第5週「ほんまの家族や」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
松竹楽劇団に参加。
- 昭和13年(1938年)(シヅ子24歳)
上京し、松竹楽劇団の旗揚げに参加しました。この頃から、作曲家の服部良一さんと組んでジャズ歌手として売り出します。
しかし、戦時中で、当局の指導で、たびたび公演中止を余儀なくされる状況が続きます。
東宝への移籍問題。
- 昭和13年(1938年)(シヅ子24歳)
「松竹楽劇団」の大スターとなったシズ子でしたが演出家の益田から、東宝への移籍を勧められました。
益田はシヅ子の才能にほれ込んでおり、またシヅ子も「初恋のような淡い片想い」のような感情を益田に対して抱いていました。
しかし結果的にはシヅ子は松竹に留まります。
朝ドラ『ブギウギ』のスズ子移籍問題。
演出家の松永への淡い恋はスズ子の独りよがりでした。スズ子は梅丸に留まる決心をいや作曲家の羽鳥の曲を歌うことを決断するのです。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第7週「義理と恋とワテ」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
笠置シヅ子の「ラッパと娘」
昭和14年(1939年)帝劇のステージ「グリーン・シャドウ」のステージで笠置シズ子が「ラッパと娘」を披露します。
この公演ではシヅ子は黒人の娘に扮して歌いました。
これはアメリカ映画「芸術家とモデル」でルイ・アームストロングと掛け合いでマーサ・レイが歌ったシーンを意識したものでした。
スウィングバンドのリーダー斉藤広義のトランペットソロの掛け合いで歌ったかなり鮮烈な作品です。
「パトジズ・デジドダー」とノリノリのスキャットにトランペットの哀調あふれる絶叫が入り乱れ、戦前のジャズとは思えない斬新さでした。
笠置シヅ子の世界⇒懐かしい「スイングの女王」を聴いてみては。
朝ドラ『ブギウギ』のスズ子。
ブギウギではスズ子のデビュー曲「ラッパと娘」を第6週30話で披露しました。趣里さんが歌って踊る「ラッパと娘」を是非聴いて下さい。
第6週26話~30話(10月30日~11月3日)
⇒朝ドラ「ブギウギ」第6週「バドジズってなんや?」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
笠置シヅ子の戦前の活動。
「松竹楽劇団」旗揚げから1年足らずで、歌姫が日本にも登場したとの評判。シヅ子の元には連日マスコミが押しかけました。
服部は懇意にしていた日本コロムビアの山内義富に「松竹楽劇団」の公演に誘って、シヅ子を見てもらいます。
7月公演に向けて「ラッパと娘」を作曲し、シズ子の日本コロムビア専属第1枚目のレコードとしてリリースされました。
朝ドラ『ブギウギ』スズ子の2曲目。
昭和15年(1940年)センチメンタル・ダイナがリリース。
趣里さんが歌う「センチメンタル・ダイナ」を是非お聴き下さい。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第7週「義理と恋とワテ」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
笠置シヅ子の開戦前。昭和14年。
パンチのある声で歌い上げるシヅ子は「日本人離れのした発声で自由奔放に歌いまくる」とも評されていました。
しかし、日本は戦争につき進んでいきます。シヅ子の弟・亀井八郎も徴兵召集されました。母親のウメは心労もあって、胃がんと心臓病を併発して寝たきりです。
周囲はシヅ子が帰阪して母親を見舞えに行ってと進言しますが、責任感の強いシヅ子は「わてらの職場は舞台です。
と言い放します。
わてのお母さんも東京に行ったら死ぬ気で戦ってこいといってはりましたから、死に目に逢いにいくより舞台を守ってた方がよろこんでくれますやろう。
とすぐにでも帰りたい気持ちを押し殺して舞台に上がり続けます。
ウメは「あの子も東京でどうやらモノになったのやろ。わてはそれを土産にしてあの世に行きまっけど」と言って永眠しました。
朝ドラ『ブギウギ』スズ子の戦前。
戦争に突き進む日本。スズ子は化粧も衣装も派手なものは出来なくなりました。もちろん派手なアクションも。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第8週「ワテのお母ちゃん」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
笠置シヅ子の開戦前。昭和15年。
「日本人離れ」が戦時体制が強まる日本国内の国粋主義者らの神経を逆撫でしてシヅ子はバッシングを受けることになるのです。
ブギウギ「福来スズ子」のモデルは笠置シヅ子。「戦中の活動」。
松竹楽劇団が解散。
「松竹楽劇団」は1941年(昭和16年)1月、解散に追い込まれました。
笠置シズ子とその楽団が解散。
「ジャズ」を得意ジャンルとする「笠置シズ子とその楽団」は「敵性音楽」として目をつけられていました。
軍からのお呼びがかかることはなく、1度として国外で慰問興行をしたことはありませんでした。
遂に昭和19年(1944年)には解散に追い込まれました。
ブギウギ「福来スズ子」のモデルは笠置シヅ子。「戦後の活動」。
昭和20年8月15日(1945年)、第二次世界大戦が終結しました。
東京ブギウギがヒット。
昭和22年(1947年)日本中が重苦しい空気に包まれる中で服部さんが作曲した「東京ブギウギ」を笠置さんが歌い、爆発的なヒットを記録します。
戦後の日本に、パワフルな歌声で元気と活力を与えたのです。
女児を出産
昭和22年(1947年)5月に9歳年下の婚約者・最愛の吉本穎右(えいすけ)が亡くなります。
笠置は絶望の淵の中、その翌月にひとり娘のエイ子を出産し、シングルマザーとして、育児と芸能活動に奮闘することになりました。
男の噂はひとつもありませんでした。
笠置が生涯ただ一度、熱烈な恋に落ちた相手が吉本穎右(えいすけ)でした。吉本は吉本興業の創始者、吉本せいの息子です。
笠置の大ファンだった吉本と笠置は、出会ってからあっという間に恋に落ちます。笠置が29歳、吉本が20歳のときでした。
「せい」の反対を押し切って二人は婚約しますが終戦を挟んで同居できたのは、わずか数カ月でした。
笠置は初めて会ったときに吉本から渡された名刺を終生離さず身につけていました。
そして、親しい人にそれを見せて「夫が初めて会ったときにくれたの」と言いながら照れていたということです。
『ブギウギ』第1話で
『ブギウギ』では第1話の冒頭でシヅ子が未婚の母であることが語られていましたね。
吉本がモデルの村山愛助をえんじるのは水上恒司です。
⇒水上恒司(キャスト)が朝ドラ「ブギウギ」で演じるは「村山愛助」
二人の“生涯ただ一度の恋”がどのように描かれるのか大注目です。
ブギの女王
シングルマザーになってもヒットを連発させます。もちろん作曲は服部さん。
「ヘイヘイブギ」
「ジャングル・ブギ」
「ホームランブギ」
「買い物ブギー」
などを歌い歌謡界では“ブギの女王”と呼ぶようになります。
ブギウギ「福来スズ子」のモデル笠置シヅ子が歌手引退。
歌手業を引退。
昭和31年(1956年)に発売した「たよりにしてまっせ」を最後に歌手業を引退します。
その後は、晩年まで女優として映画やテレビドラマなどで活躍します。
ブギウギ「福来スズ子」のモデル笠置シヅ子が歌うブギウギとは。
ブギ(ブギウギ)とは黒人音楽から生まれた8ビートのダンス音楽で、スウィング・ジャズやロックンロールなどで使われました。
笠置シズ子は身長150センチの小柄な体です。
ですが、目一杯開いた大きな口から発せられる爆発的な声量と全身を使ったダイナミックなアクション。
その姿でブギを激しく歌い踊った笠置シズ子は、敗戦直後の日本で一躍大スターに躍り出るのです。
それまでの日本人はほとんど直立不動で歌う歌手しか見ていません。
笠置シズ子の登場はセンセーショナルでした。焼跡で飢えていた人々は、笠置シズ子の歌と踊りから生きる活力を得ていたのです。
笠置シヅ子の代表曲。
1947年:「東京ブギウギ」代表曲
1950年:「買物ブギー」「オッサン」と連呼する独特な歌詞
でも、テレビではほとんど歌声を披露していません。
今、笠置シズ子の姿を観るなら黒澤明監督の映画『酔いどれ天使』(1948年)です。
劇中で黒澤昭が作詞した「ジャングル・ブギー」を熱唱する姿は圧巻です。
ブギウギのTV作品。
笠置シズ子の性格は真面目で実直、礼節を重んじ、潔癖な人柄だったと言われています。
これまで何度もドラマのモデルとして登場しています。
2016年放送の『トットてれび』(NHK総合)では『ブギウギ』の主題歌「ハッピー☆ブギ」を歌う中納良恵が笠置を演じています。
ブギウギ「福来スズ子」のモデル笠置シヅ子と服部良一の関係。
笠置シヅ子と服部良一。
笠置シヅ子を語る上で外せないのが、師の服部良一です。
「別れのブルース」、「東京ブギウギ」、「青い山脈」など国民的ヒット曲を連発した作曲家で、息子の服部克久、孫の服部隆之も作曲家です。
孫の隆之は『ブギウギ』の音楽を担当しています。
『ブギウギ』では服部良一をモデルにした人物・羽鳥善一を草彅剛が演じています。
⇒草彅(なぎ)剛(キャスト)が朝ドラ「ブギウギ」で演じるは「羽鳥善一」
笠置シヅ子と服部良一の出会い。
服部と笠置が出会ったのは昭和13年のことです。
松竹楽劇団で笠置を見た服部は、迫力に満ちたパフォーマンスと3センチもあったつけまつ毛に魅了されたといいます。
笠置は服部のもとで才能を発揮し、スイング・ジャズに乗せて歌い踊る「スヰングの女王」として名を馳せます。
戦争に突入した後、「敵性歌手」として警察に目をつけられた笠置は、活躍の場を縮小せざるを得なくなります。
しかし、終戦後に笠置と再会した服部は、新たに活力に満ちたブギの曲を与え、ともにスターダムへと駆け上がっていくのです。
笠置の曲はほとんどが服部良一の作曲によるものであり、ステージでは服部の曲しか歌いません。
「別れのブルース」
服部が作曲した「別れのブルース」が大ヒットしていた淡谷のり子。
同じ師匠を持つ先輩にあたる笠置が空襲で焼け出されたときは、服部家に同居していたこともありました。
服部と笠置は「人形遣いと人形」と表現されるような切っても切れない関係だったのです。
『ブギウギ』で淡谷がモデルの茨田りつ子は菊地凛子が演じます。
⇒菊地凛子(キャスト)が朝ドラ「ブギウギ」で演じるは「茨田りつ子」
笠置シヅ子と芸人たちとの関係は。
笠置シヅ子と深い関係のあった芸能界の大物が三人います。
“ブルースの女王”淡谷のり子、“喜劇王”榎本健一、そして“歌謡界の女王”美空ひばりです。
服部良一をそれぞれ師に持つ淡谷のり子と笠置シヅ子はライバル同士でもありました。
“静”の淡谷と“動”の笠置は対照的なスタイルを持つ歌手でした。
ときに淡谷は辛辣に笠置を批評することもあったが、お互いを知り尽くした友人同士として晩年まで交流を続けます。
淡谷は笠置の家に遊びに来るたびに娘のエイ子に「お母さんに感謝しなさいよ」と言っていたといいます。
笠置は歌だけでなく、喜劇の舞台や映画でも大活躍を見せました。
笠置にとっての音楽の師が服部良一なら、喜劇の師はエノケンこと“喜劇王”榎本健一だったのです。
戦前から絶大な人気を誇った榎本が、初めてタイトルに二人の名前が連名で入る二枚看板を許した相手が笠置でした。
病に倒れた榎本の舞台を、超多忙だった笠置が急遽広島まで駆けつけて代演したこともあった。義理人情を大切にした笠置らしい出来事です。
“歌謡界の女王”として知られる美空ひばりは、天才少女として世に出た11歳の頃、「ベビー笠置」「豆笠置」というコピーをつけて、笠置のモノマネをレパートリーにしていました。
後に、笠置の持ち歌をめぐって二人の間には確執めいたものが生まます。
やがて「ブギの女王」の時代の終焉とともに、入れ替わるようにやってきたのが美空ひばりの時代でした。
笠置シヅ子はすっぱりと引退。
ブギのブームが下火になった昭和32年。
笠置は突然歌手廃業を宣言します。40歳を過ぎて、かつてのように歌い踊れなくなったことが原因だったと言われています。
その後、個性派女優に転身した笠置は、テレビCMやバラエティでも活躍したが、何度も起こった「懐メロ」ブームでは一度も歌うことはありませんでした。
笠置シヅ子の最期。
笠置はがんとの闘病の末、昭和60年3月30日、最愛の娘に看取られて息を引き取ります。享年70歳。葬儀委員長を務めたのは77歳の服部良一でした。
まとめ。
『ブギウギ』では銭湯の娘として登場した花田鈴子。その後、福来スズ子として活躍する姿でスタートしました。
昭和の戦前、そして戦中戦後をどのように描くのか。
モデルの笠置シヅ子を知る人も少なくなっていきます。令和の時代で生きる若者たちにはどのように感じるのでしょう。
この半年間、朝ドラを視聴しながら世の中の反応もウオッチしていきたいと思います。