ブギウギのヒロイン「福来スズ子」のモデルは戦後の大スター「笠置シヅ子」です。彼女の歌謡の歴史と朝ドラ「ブギウギ」のあらすじをリンクさせながら紹介していきます。
さて、笠置シヅ子の曲をリアルタイムで聞いた人は今や少なくなりました。笠置さんは戦後「ブギの女王」の異名で一世を風靡した戦後最初の国民的スターでした。
当時は東海林太郎さんを代表に直立不動で歌う歌手が多いので多くの日本人は笠置が歌う「ブギ」はセンセーショナルだったと思います。
最愛なる愛助との永遠の別れの週が終了し子育てしながらシングルマザー最初のヒット曲を生み出しました。
戦後のスズ子は東京ブギウギがヒットし「ブギの女王」が誕生します。
放送は終わりました。⇒ブギウギ「福来スズ子」のモデル笠置シヅ子が渡米。
23週(3月4日~8日)~26週(最終週)(3月25日~3月29日)
戦争の爪痕も少しづつ少なくなり笠置さんのアメリカ公演は大成功を収め帰国しました。
ところで、笠置シヅ子をモデルにした趣里さんの福来スズ子をもう一度観たい!!
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ブギウギ「福来スズ子」のモデルは笠置シヅ子。
笠置シヅ子さん(1914-1985)享年70歳。
躍動感あるリズム楽曲と、派手なダンスパフォーマンスを導入した革命的な歌手でした。
今では当たり前のエンターテイメントの世界ですが、戦後の荒廃した日本人の心に強く突き刺さる歌手であったことは事実です。
戦後まもなく授かった一人娘を抱えて舞台に立つ姿は、当時「パンパン」と呼ばれた街娼たちから絶大なる支持を得たと雑誌では伝えています。
「買い物ブギー」のヒット以降は、「ブギの女王」と呼ばれました。
しかし、ブギが下火になると歌手活動は行うことなく女優に転向します。そのとき、「どうぞ、ギャラを下げてください」と申し出たエピソードは有名です。
笠置シズ子の歌声を聞きたい昭和生まれのファンはこちら⇒決定盤 笠置シヅ子「ブギの女王」
笠置シヅ子の誕生。
笠置シヅ子は大正3年(1914年)8月25日に香川県大川郡相生村(現・東かがわ市)で生まれました。
生後間もなく大阪市福島区で米屋を営む亀井家の養女になります。
笠置さんは、自身が養女であることを知らずに育ち、自身の出生について知ったのは18歳の時でした。笠置さんの本名は亀井静子。
亀井家は大正7年(1918年)の米騒動で米屋を廃業し銭湯を開業しました。
ブギウギの花田鈴子。第1週と2週は子供時代。
朝ドラ『ブギウギ』の花田鈴子の登場は、大阪の下町・福島にある銭湯「はな湯」からですね。
遊び人の父・梅吉としっかり者の母・ツヤそして個性的な常連客たちに囲まれてのびのびと育っていましたね。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第1週「ワテ、歌うで!」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第2週「笑う門には福来る」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
笠置シヅ子の出生の秘密。
笠置シズ子は大阪福島で銭湯を営んでいた父・音吉と母・うめのもとで育ちました。しかし、笠置の出生には秘密があったのです。
実は「音吉とうめ」は血のつながらない養父母だったのです。笠置がそのことを知ったのは、18歳のときでした。
ブギウギの福来スズ子。第3週は18歳。
昭和2年(1927年)に小学校を卒業します。(鈴子:12歳)USKに入団し歌と踊りの世界に踏み出しました。
入団から6年後、スズ子は18歳になりました。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第3週「桃色争議や!」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
ブギウギの福来スズ子。第4週は出生の真実。
スズ子達はストライキに入りました。その騒動が収まった時…。
10月第4週(23日~27日)20話
⇒朝ドラ「ブギウギ」第4週「ワテ、香川に行くで」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
笠置シヅ子の実父は。
香川県で生まれた笠置の実父は、笠置が生まれた翌年に25歳で病死しました。
まだ10代だった実母は乳の出が悪く、偶然近所に帰省中だった「うめ」にもらわれることになったのようです。
「うめ」は困っている人を見捨てることができない、義理人情に厚い女性でした。
その後、実父の友人だった戦後初の東大総長・南原繁から初めて実父の人となりや実母との交際のことなどを詳しく聞くことができました。
笠置シヅ子は30代後半になっていました。南原はその後、笠置の後援会長となって笠置を見守り続けます。
ブギウギ「福来スズ子」のモデルは笠置シヅ子。「戦前の活動」
大阪松竹楽劇部で初舞台。
卒業後、OSK日本歌劇団の前身である大阪松竹楽劇部に入り、「三笠静子」の芸名で初舞台を踏みだします。
- 昭和9年(1934年)(シヅ子20歳)
昭和9年(1934年)には、自らも出演した歌劇「カイヱ・ダムール(愛の手帳)」の主題歌として、日本コロムビアから「恋のステップ」でレコードデビューを果たします。
(作詞:高橋掬太郎、作編曲:服部ヘンリー)
- 昭和10年(1935年)(シヅ子21歳)
「笠置シヅ子」に改名します。
大阪松竹楽劇部を退団
- 昭和12年(1938年)
12歳で松竹楽劇部の門を叩いたシヅ子は、11年間の大阪松竹少女歌劇時代を経て、23歳にして新たな道を歩みます。
ブギウギの福来スズ子。第5週は大阪を離れる。
第5週「ほんまの家族や」の25話でスズ子と秋山の退団公演が行われまいた。趣里さんのブギウギ版「桜咲く国」をお聴き下さい。
10月第5週21話~22話(10月30日~31日)
⇒朝ドラ「ブギウギ」第5週「ほんまの家族や」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
松竹楽劇団に参加。
- 昭和13年(1938年)(シヅ子24歳)
上京し、松竹楽劇団の旗揚げに参加しました。この頃から、作曲家の服部良一さんと組んでジャズ歌手として売り出します。
しかし、戦時中で、当局の指導で、たびたび公演中止を余儀なくされる状況が続きます。
東宝への移籍問題。
- 昭和13年(1938年)(シヅ子24歳)
「松竹楽劇団」の大スターとなったシズ子でしたが演出家の益田から、東宝への移籍を勧められました。
益田はシヅ子の才能にほれ込んでおり、またシヅ子も「初恋のような淡い片想い」のような感情を益田に対して抱いていました。
しかし結果的にはシヅ子は松竹に留まります。
笠置シヅ子の「ラッパと娘」
昭和14年(1939年)帝劇のステージ「グリーン・シャドウ」のステージで笠置シズ子が「ラッパと娘」を披露します。
この公演ではシヅ子は黒人の娘に扮して歌いました。
これはアメリカ映画「芸術家とモデル」でルイ・アームストロングと掛け合いでマーサ・レイが歌ったシーンを意識したものでした。
スウィングバンドのリーダー斉藤広義のトランペットソロの掛け合いで歌ったかなり鮮烈な作品です。
「パトジズ・デジドダー」とノリノリのスキャットにトランペットの哀調あふれる絶叫が入り乱れ、戦前のジャズとは思えない斬新さでした。
ブギウギのスズ子。第6週は「ラッパと娘」
ブギウギではスズ子のデビュー曲「ラッパと娘」を第6週30話で披露しました。趣里さんが歌って踊る「ラッパと娘」を是非聴いて下さい。
第6週26話~30話(10月30日~11月3日)
⇒朝ドラ「ブギウギ」第6週「バドジズってなんや?」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
笠置シヅ子の世界⇒懐かしい「スイングの女王」を聴いてみては。
笠置シヅ子の戦前の活動。
「松竹楽劇団」旗揚げから1年足らずで、歌姫が日本にも登場したとの評判。シヅ子の元には連日マスコミが押しかけました。
服部は懇意にしていた日本コロムビアの山内義富に「松竹楽劇団」の公演に誘って、シヅ子を見てもらいます。
7月公演に向けて「ラッパと娘」を作曲し、シズ子の日本コロムビア専属第1枚目のレコードとしてリリースされました。
ブギウギの福来スズ子。第7週は移籍問題。
演出家の松永への淡い恋はスズ子の独りよがりでした。スズ子は梅丸に留まる決心をいや作曲家の羽鳥の曲を歌うことを決断するのです。
趣里さんが歌う「センチメンタル・ダイナ」を是非お聴き下さい。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第7週「義理と恋とワテ」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
昭和15年(1940年)センチメンタル・ダイナをリリースしました。
笠置シヅ子の開戦前。昭和14年。
パンチのある声で歌い上げるシヅ子は「日本人離れのした発声で自由奔放に歌いまくる」とも評されていました。
しかし、日本は戦争につき進んでいきます。シヅ子の弟・亀井八郎も徴兵召集されました。母親のウメは心労もあって、胃がんと心臓病を併発して寝たきりです。
周囲はシヅ子が帰阪して母親を見舞えに行ってと進言しますが、責任感の強いシヅ子は「わてらの職場は舞台です。
と言い放します。
わてのお母さんも東京に行ったら死ぬ気で戦ってこいといってはりましたから、死に目に逢いにいくより舞台を守ってた方がよろこんでくれますやろう。
とすぐにでも帰りたい気持ちを押し殺して舞台に上がり続けます。
ウメは「あの子も東京でどうやらモノになったのやろ。わてはそれを土産にしてあの世に行きまっけど」と言って永眠しました。
ブギウギの福来スズ子。第8週は戦前のスズ子。
戦争に突き進む日本。スズ子は化粧も衣装も派手なものは出来なくなりました。もちろん派手なアクションも。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第8週「ワテのお母ちゃん」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
笠置シヅ子の日米開戦前。昭和15年。
「日本人離れ」が戦時体制が強まる日本国内の国粋主義者らの神経を逆撫でしてシヅ子はバッシングを受けることになるのです。
ブギウギの福来スズ子。第9週は日米開戦前。
舞台でのスズ子のスイングも封印させられてしまいます。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第9週「カカシみたいなワテ」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
ブギウギの福来スズ子。第10週は弟の戦死。
戦争の悲惨がスズ子の身内にも。弟の戦死の訃報が…
⇒朝ドラ「ブギウギ」第10週「大空の弟」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
弟の戦死。
笠置シヅ子と弟の亀井八郎は血縁関係はありませんでしたが、兄弟愛は深かったようです。
その八郎が戦死したのは、太平洋開戦直前の12月6日で、戦死した場所は仏印の陸上から約1㎞沖合の海上とされています。
八郎の写真は飛行服を着込んだ航空兵の姿でしたので、シズ子は八郎が「仏印の大空に散華した」と考えていました。
笠置が歌う「大空の弟」の曲は八郎を想っての曲で勇逸の軍歌です。
ブギウギ「福来スズ子」のモデルは笠置シヅ子。「戦中の活動」。
1941年12月8日の真珠湾攻撃でついに太平洋戦争が開戦します。当局による芸能界への締め付けは一層厳しくなっていきました。
笠置シズ子は「敵性歌手」として当局から目をつけられていたためジャズを封印していました。
松竹楽劇団が解散。
「松竹楽劇団」は1941年(昭和16年)1月、解散に追い込まれました。
戦時中の巡業活動。
「笠置シズ子とその楽団」は苦労していました。「敵性音楽」として目をつけられていたので1度として国外で慰問興行をしたことはありませんでした。
巡業は日本国内の軍需工場や映画館での単発興行となっていました。「ラッパと娘」や「センチメンタル・ダイナ」はもちろん歌うことができません。
そこで服部が、興行のためにシズ子が歌える曲を作曲してくれました。その代表的曲が「アイレ可愛や」です。
しかし、「笠置シズ子とその楽団」の活動は低調でマネージャーが資金確保のためにシズ子に無断で楽団を興行会社に売却してしまったのです。
吉本穎右との出会い。
慰問興行中の1943年(昭和18年)6月28日、シズ子は地方巡業で名古屋の劇場に出演していました。
そこに頭は丸坊主だがシックなグレーのスーツを着込んだ長身で“美眉秀麗な貴公子然”とした青年が現れます。
この美青年とは翌29日にシズ子が宿泊していた旅館でも出会います。
この美青年は、早稲田大学生で、吉本興業を創業した女傑の実業家吉本せいの息子の吉本穎右でした。
穎右の兄と6人の姉妹はいずれも早逝しており、「せい」にたった1人残された子供で吉本興業の後継者でした。
2人の出会った時の年齢はシズ子が30歳、穎右は21歳でした。
シズ子は9歳という歳の差や、身分の差を気にして恋愛の対象になるとは考えていませんでした。しかし、
東京に戻ったのち、お互いの家を行き来して交際を深めていくうちに、次第とお互いに惹かれ合うようになっていったのです。
吉本興業の創始者・吉本せいの御曹司・吉本頴右と恋に落ちる話は涙なくしては語れません。
笠置は子供を身ごもるが、吉本頴右は病で早逝し、いわゆるシングルマザーとして子供を育てながら、スターとして活躍していくのです。
ブギウギの福来スズ子。第11週は出会い。
ドラマではやがて最愛なる人となる学生さんと巡業中に出会います。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第11週「ワテより十も下や」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
2人は恋に落ちる。
1944年(昭和19年)の暮れ。名古屋での出会いから1年半経っていました。
日本はサイパンの戦いの敗北で、東京にB-29がいつ来襲するのかという恐怖のなかで、2人は恋に落ちていくのです。
この出会いもあって、シズ子にとって戦時中はのちに「戦争中の5年間のブランクはアテの地獄でした」と振り返っています。
芸能人としては最も不幸な時代であったが、シズ子個人としては「我が生涯最良の日々」となりました。
ブギウギの福来スズ子。第12週は恋愛。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第12週「あなたのスズ子」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
硫黄島の戦いや沖縄戦。
戦況は厳しくなる一方で、連合軍が日本本土に迫り硫黄島の戦いや沖縄戦が戦われ、B-29が日本各都市を焼き尽くしていました。
そのような厳しい状況においてもシズ子と穎右は関係を深めていったのです。
2人が逢うのは穎右の市ヶ谷の邸宅でした。穎右は率先してシズ子の世話をし続けていました。
ブギウギの福来スズ子。13週は看病。
スズ子は愛助を看病し愛助も日ごと元気になってきます。そして愛助の後押しもあり地方巡業で歌を披露し皆を元気にしています。
しかし、空襲が日常的となり防空壕に避難する日を多くなりました。スズ子はそこでも愛助の助言で皆に歌を披露します。
荒んだ人々に一瞬でも笑顔が戻ってきます。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第13週「今がいっちゃん幸せや」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
東京大空襲。
1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲で穎右の邸宅は焼失、またシズ子の借家も焼失してしまいます。
穎右は叔父の林弘高から、荻窪の林の自宅の隣にあるフランス人の邸宅を借家として斡旋してもらい、シズ子と同棲することになります。
しかし、その邸宅にはシズ子と穎右だけではなく、空襲で焼け出された林の親族や、東宝の重役家族も転がり込んで、さながら避難所のようになっていました。
シズ子は全く気が休まることはなかったのですが、ようやく穎右と一緒に生活できる幸せを感じていました。
ブギウギの福来スズ子。14週は慰問。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第14週「戦争とうた」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
笠置シズ子とその楽団が解散。
遂に昭和19年(1944年)には解散に追い込まれました。
ブギウギ「福来スズ子」のモデルは笠置シヅ子。「終戦」。
笠置シズ子の終戦。
シズ子の人生にとって、荻窪時代が忘れ難いロマンス・アルバムになりました。
ブギウギの福来スズ子。15週は終戦から。
昭和20年(1945年)8月15日に、スズ子たちは富山で終戦を迎えます。日本の降伏によって長かった戦争は終わりを告げました。
スズ子たちは東京に戻り、3ヶ月後には「日帝劇場」のステージに立つことができました。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第15週「ワテらはもう自由や」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
笠置シヅ子の戦後の活動。初舞台共演。
多くの劇場が戦災を受けましたが、東京の日本劇場は奇跡的に戦災も接収も逃れ、「娯楽の殿堂」と呼ばれ、戦後のエンターテイメントをけん引していきます。
そんな中で、1946年に笠置シヅ子はエノケンと初めて舞台で共演しました。タイトルは『舞台は廻る』で、作家は菊田一夫です。
この作品は服部と笠置が終戦後に初めてタッグを組みました。服部は「コペカチータ」という楽曲を書き下ろしました。
「ブギウギ」ではどのような描き方をするのか楽しみです。
ちなみに1948年に公開した笠置が主演した映画は『舞台は廻る』です。作家は久生十蘭で、音楽は服部ですが、エノケンは出演していません。
ブギウギの福来スズ子。16週は戦後の復興。
昭和の芸能史が大きく動き出す戦後のストリーが始まりました。スズ子の人生において、そして芸能の戦後復興が始まります。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第16週「ワテはワテだす」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
笠置シヅ子の戦後。笠置シヅ子の妊娠。
愛助のモデルは吉本エイスケですが、史実のエイスケは、笠置シヅ子との結婚を急ぎ、早く仕事をやめるように促していました。
⇒笠置シヅ子自伝。
ただ、ドラマでは、スズ子本人は辞めても良いと言っていましたが、それを愛助が止める展開でした。
愛助が嫌われないようにする脚本でしたね。
二人は、1946年(昭和21年)5月、静養のためシヅ子と穎右が箱根に旅行にい、そして、翌6月に吉本エイスケは帰阪するこになりました。
シヅ子は途中まで同行し、琵琶湖の湖畔の旅館で同宿しました。そこで高峰三枝子の戦前のヒット曲「湖畔の宿」をエイスケは歌ったようです。
感極まったシヅ子は思わず嗚咽し、たが、照れたエイスケは「なんや、歌の文句(歌詞)みたいな別れやな」と照れ隠しに茶化したようです。
翌日、二人は大津駅で別れました。「では、ちょっと行ってくるさかい、秋までには東京に帰れるやろう」と車窓から手を振ったが、これが彼との最後の旅行になりました。
東京に戻ったシヅ子は10月にはジャズカルメンの稽古に入りました。でも、身体の変調に気が付き、産婦人科医を受診したところ妊娠3か月と判明しました。
ブギウギの福来スズ子。17週はスズ子が妊娠。
愛助の母であり村山興業社長の村山トミは結婚条件としてスズ子の歌手引退を伝えてきました。
スズ子は、愛助と一緒になるのであれば歌手をやめようと思っていました。そんな中、嬉しい出来事がありました。
スズ子が妊娠したのです。しかしそこにも壁が…。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第17週「ほんまに離れとうない」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
笠置シヅ子が愛した吉本穎右。
笠置が生涯ただ一度、熱烈な恋に落ちた相手が吉本穎右(えいすけ)でした。吉本穎右は吉本興業の創始者、吉本せいの息子です。
笠置の大ファンだった吉本と笠置は、出会ってからあっという間に恋に落ちました。笠置が29歳、吉本が20歳のときでした。
「せい」の反対を押し切って二人は婚約しますが終戦を挟んで同居できたのは、わずか数カ月でした。
笠置は初めて会ったときに吉本から渡された名刺を終生離さず身につけていました。
そして、親しい人にそれを見せて「夫が初めて会ったときにくれたの」と言いながら照れていたということです。
昭和22年(1947年)5月に9歳年下の婚約者・最愛の吉本穎右(えいすけ)が亡くなります。
笠置は絶望の淵の中、吉本穎右(えいすけ)さんが亡くなって約2週間後に娘のエイ子を出産し、シングルマザーとして、育児と芸能活動に奮闘することになりました。
出産時には既に穎右さんが亡くなったことを知っていました。
ブギウギの福来スズ子。18週は愛助の病魔。
スズ子は妊娠中でも舞台「ジャズカルメン」の稽古を休まずに続けています。一方愛助の病魔が愛助の体から離れていくことがありません。
そんな中、舞台「ジャズカルメン」の舞台が幕をあげるのです。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第18週「あんたと一緒に生きるで」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
そして、遂にその日が来てしまいました。愛助は我が子を抱くことができませんでした。
「ブギウギ」第1話の冒頭でスズ子が未婚の母であることが語られていましたね。吉本がモデルの村山愛助を演じたのは水上恒司です。
⇒水上恒司(キャスト)が朝ドラ「ブギウギ」で演じるは「村山愛助」
二人の“生涯ただ一度の恋”と結婚は18週で終わりました。その後、スズ子に男の噂はひとつもありませんでした。
東京ブギウギがヒット。
昭和22年(1947年)日本中が重苦しい空気に包まれる中で服部さんが作曲した「東京ブギウギ」を笠置さんが歌い、爆発的なヒットを記録します。
戦後の日本に、パワフルな歌声で元気と活力を与えたのです。
そのブギの原点は上海でした。戦時中の上海でブギのリズムを取り入れた「夜来香幻想曲」を「李香蘭」が披露し大反響を得ていたからです。
いつしか平和な世の中となったら、ブギを歌える日が来るだろう。そう信じていたのです。そして遂にその日がやってきました。
服部はある日、中央線の電車内で、つり革を握って振動に身をゆだねていたとき、八拍のブギのリズムが頭に浮かんだようです。
このリズムを忘れないうちに書き留めようと、最寄りの西荻窪駅で降りて近くの喫茶店でナプキンに音符を書き込みました。
作詞は、新しいリズムに相応しいように、気鋭の若手鈴木勝に依頼しました。
東京ブギウギのレコーディング。
昭和22年(1947年)9月10日に日本コロムビアのスタジオでレコーディングが行われました。
隣のビルは進駐軍に接収されて、アメリカ軍下士官の兵舎となっていたので、当日は多くのアメリカ兵が缶ビールやコーラを手にして押し寄せました。
ディレクターは困っていたが、服部は逆にライブ感が出て面白いと考えて、レコーディングを強行しました。
やがて、演奏が終わると、真っ先に歓声を上げたのはアメリカ兵でした。たちまちスタジオは大祝賀会の会場となっていたのです。
服部はビールを飲みながら、本場のアメリカ人の魂を震わせた「東京ブギ」の成功を確信しました。
ブギウギの福来スズ子。19週は「東京ブギウギ」
⇒朝ドラ「ブギウギ」第19週「東京ブギウギ」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
東京ブギウギがリリース。
昭和23年(1948年)1月にレコードがリリースされ爆発的なヒット曲となりました。
日本劇場で曲名と同じ舞台名の「東京ブギウギ」公演が開演し、連日超満員となりました。
ブギのリズムとシズ子のパンチの効いた歌声は、敗戦の荒廃の虚脱感を吹き飛ばすエネルギーの爆発音であったのです。
ブギウギの福来スズ子。20週は「ワテかて必死や」
当時、社会問題となっていた有楽町の「娼婦」パンパンと呼ばれていた女性と三流記事がキッカケでもめてしまいます。
でもスズ子の積極的な行動で分かち合いその女性たちはスズ子のファンになります。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第20週「ワテかて必死や」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
いかがでしたか。昭和の大歌手笠置シヅ子を福来スズ子として描いた「ブギウギ」も残り1ヶ月になってしまいました。
5ヶ月間の「ブギウギ」見逃してしまったあなた、今からでも遅くありません。昭和のスターの物語はあなたにもきっと勇気を与えてくれます。
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ブギの女王が誕生。
シングルマザーの笠置シヅ子はヒットを連発させます。もちろん作曲は服部さんです。
シヅ子はアクションを取り入れステージせましと踊り回り、咆哮のような力強いヴォーカルで、老若男女問わず日本国民を魅了していきます。
GHQが推進した婦人の地位向上政策により、抑圧から解放された女性たちの強い共感を呼び、あらゆる階層の女性から圧倒的な人気を獲得したのです。
「ヘイヘイブギ」
「ジャングル・ブギ」
「ホームランブギ」
「買い物ブギー」
などを歌い歌謡界では“ブギの女王”と呼ぶようになります。
ブギウギ「福来スズ子」のモデル笠置シヅ子が映画界進出。
笠置シヅ子の「醉いどれ天使」。
シズ子はエノケンとの喜劇の他の映画にも数多く出演しています。
昭和23年(1948年)に公開された黒澤明の映画「醉いどれ天使」ではキャバレーの歌手を演じ、ワンシーンのみの登場だが非常に強い印象を残しました。
また、シズ子がそのときに歌った劇中歌「ジャングル・ブギー」は黒澤が作詞しています。
(20週の最後に趣里さんが披露しています)
当初の歌詞では「腰の抜けるような恋をした」や「骨のうずくような恋をした」など、黒澤らしい激しい表現でした。
さすがの芸魂の塊のようなシズ子も、黒澤の激しい歌詞を見て「えげつない歌、うたわしよるなぁ」と照れてため息をついていました。
結局、服部が少し歌詞の表現を和らげてからレコーディングしています。
ブギウギの福来スズ子。21週は「あなたが笑えば、私も笑う」
新曲ヘイヘイブギーの誕生です。
その新曲誕生はりつ子との確執をイメージに羽鳥が作曲しました。果たしてどんな曲なんでしょう。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第21週「あなたが笑えば、私も笑う」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
笠置シヅ子の「紅白歌合戦」。
「買物ブギー」は昭和25年(1950年)にリリースされました。作曲はもちろん服部良一で作詞は服部が別名義の「村雨まさを」です。
上方落語の演目のひとつである、「無い物買い」を参考にしているようですが、「ブギウギ」で描かれるか注目ですね。
笠置シヅ子は1952年紅白初出場の「第2回NHK紅白歌合戦」でこの曲を歌唱しました。
「買物ブギー」の歌詞には〈ヤヤコシ ヤヤコシ ヤヤコシ ヤヤコシ アア ヤヤコシ〉があります。
流石の笠置も「ややこし、ややこし」とぼやき、服部がおもしろがり、急きょ曲に取り入れたというエピソードが残っています。
このエピソードも「ブギウギ」で描かれるか注目ですし楽しみです。
ブギウギの福来スズ子。22週は「あ〜しんど♪」
22週の新曲は「買い物ブギ」です。
この週では愛助の母・トミが永眠するシーンが描かれまたまた涙する週になるでしょう。
スズ子の家に来た家政婦さんも馴染み愛子の世話をしてくれるのでスズ子は助かっていました。
しかし、最大なる功労者であるマネージャーの山下が辞めるというのです。どうするスズ子…
⇒朝ドラ「ブギウギ」第22週「あ〜しんど♪」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
笠置シヅ子の「銀座カンカン娘」。
昭和24年(1949年)には服部が主題歌を作曲した、「銀座カンカン娘」に高峰秀子と共演しています。
劇中では高峰が歌うレコード版とは歌詞が異なる「銀座カンカン娘」を熱唱しました。「銀座カンカン娘」は50万枚の売り上げをたたき出し戦後最大のヒット曲となりました。
でも「ブギウギ」では「銀座カンカン娘」を披露するシーンはありませんでしたね。
ブギウギ「福来スズ子」のモデル笠置シヅ子が渡米。
服部良一・笠置シズ子アメリカ横断公演ツアー。
昭和25年(1950年)6月にシズ子と服部は 、「服部良一・笠置シズ子アメリカ横断公演ツアー」としてハワイからアメリカ本土まで巡業することになりました。
最初の公演地ホノルルで熱狂的に迎えられ、公演は大成功でした。
その後のロサンゼルスでも、笠置の熱いパフォーマンスは大好評で、現地のマスコミ報道でも、飛び跳ねながら踊って歌う笠置の好演は大きく取り上げられました。
一行は4カ月かけて、サンフランシスコ、ハリウッド、シカゴ、ニューヨークと、アメリカ大陸を横断して回り、笠置にとって本場のブギを学ぶ貴重な機会となりました。
ブギウギの福来スズ子。23週は「マミーのマミーや」
愛する愛子と離れてスズ子がアメリカ公演を決意する心の迷いから梅吉との別れそして生みの母・キヌとの再会が描かれます。
4ヶ月間のアメリカ公演も終わり、スズ子にとっては大変貴重な経験をして帰国しました。しかし香川の梅吉は癌で亡くなりました。
葬儀の席でスズ子は生みの母であるキヌと再会するのです。愛子は誰?と言うとスズ子は「マミーのマミー」やと答えるのです。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第23週「マミーのマミーや」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
美空ひばりのアメリカ巡業。
シズ子側のアメリカ巡業公表後に、美空ひばりのアメリカ巡業も公表されました。
目的としては、ハワイの二世部隊の第100歩兵大隊戦友会による記念碑建設への支援や、映画「東京キッド」の撮影のためでした。
ただ、実際の目的は、このアメリカ巡業でさらにひばりの知名度を向上させて、メジャーデビューを果たすつもりでした。
そして、出発はシズ子と服部より1か月早い1950年5月でした。果たして「ブギウギ」では美空ひばりの出演はあるのでしょうか?
この出来事の脚本はブギウギではありませんでしたね。
「笠置ガーデン」
笠置は世田谷に306坪の土地を購入し、ヱイ子と使用人と一緒に引っ越ししました。
庭園は色とりどりの花が咲き乱れる手入れの行き届いたもので「笠置ガーデン」と呼ばれていました。
その庭園で毎年ヱイ子のバースデーガーデンパーティを開催していました。
昭和29年(1954年)に招待された古川ロッパはあまりの豪華さに驚かされて、その様子が雑誌に報じられたほどでした。
犯罪被害。
当時は芸能人の豪華な生活がそのままマスコミで報じられることも多く、そうした芸能人が犯罪の標的とされていました。
昭和29年(1954年)3月に笠置は「6万円よこさないと娘を殺す」という脅迫状を受け取りました。
その後も電話などで脅迫されていたが、警察によって、犯人は金の受け渡し場所で逮捕されました。
その犯人はそれでも懲りずに翌年の昭和30年(1955年)にもシズ子を再度脅迫して再び逮捕されています。
ブギウギの福来スズ子。24週は「ものごっついええ子や」
ある日、スズ子の家に脅迫状が届きます。愛子を誘拐するとの脅迫状です。愛子は有名人の娘なので友達ができず悩んでいました。
その愛子を誘拐すると言うのです。もちろんスズ子は愛子の外出を禁止しました。愛子はやっとできた友達と会うことができませんでした。
その脅迫状の犯人は捕まりましたが、なんと愛子と友達になった父親だったのです。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第24週「ものごっついええ子や」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
服部良一作曲二千曲記念ショー。
昭和31年(1956年)日本は急速な復興を果たしつつあり、経済白書では「もはや戦後ではない」というキャッチフレーズが書かれたほどでした。
復興が進み、生活にゆとりが出てくる中で、歌謡曲の好みも多様化してきました。
服部も多くの歌手に曲を提供していたが、その集大成として昭和26年(1951年)11月15日から二週間に渡って日本劇場で「服部良一作曲二千曲記念ショー」が開催されました。
ショーにはシズ子の他、淡谷、藤山一郎、二葉あき子、渡辺はま子などの人気歌手が勢ぞろいし服部作曲のヒット曲を熱唱しました。
その後場所を大阪に移して記念ショーは続けられ、その千秋楽ではシズ子や淡谷などの女性陣が、服部にはサプライズで、全員で服部を取り囲んでラインダンスを披露し、服部は感極まって涙ぐんだのです。
ブギウギの福来スズ子。24週「ものごっついええ子や」でラインダンス披露。
24週の112話で羽鳥善一ビックパーティのシーンが放送されます。
⇒朝ドラ「ブギウギ」第24週「ものごっついええ子や」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
美空ひばりとの出会い。
昭和23年(1948年)5月1日
シズ子のヒット曲である「セコハン娘」を大人のような身振りで歌い、観客から喝采を浴びていた少女がいました。
この少女歌手は8歳で舞台デビューした、美空和枝こと美空ひばりです。
ブギウギの福来スズ子。25週「ズキズキするわ」で水城アユミが。
「ブギウギ」では美空ひばりと江利チエミのミックスがモデルではないかと思われる「水城アユミ」が25週「ズキズキするわ」で登場します。
年末恒例の「男女歌合戦」で新旧交代と騒がれた二人が熱唱します。
⇒2023年後期朝ドラ「ブギウギ」第25週「ズキズキするわ」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
ブギウギ「福来スズ子」のモデル笠置シヅ子が歌手を引退。
笠置の歌手生活終焉。
芸能界に若い勢力が台頭していく中、敗戦に打ちひしがれた日本人を力づけようというブギは社会的使命を終えて下火になってきました。
1953年(昭和28年)2月1日14時、NHKの東京テレビジョン(JOAK-TV)がテレビ本放送を開始した。
1956年(昭和31年)の経済白書では「もはや戦後ではない」というキャッチフレーズが書かれたほどで復興が進み、生活にゆとりが出てくる中で、歌謡曲の好みも多様化してきました。
ひばりなどの若くて勢いのある後輩の歌手たちの台頭が続く中で、シズ子は自分の歌手としての限界を感じつつあった。
1956年に「ジャ・ジャムボ」と「たよりにしてまっせ」を発表し、その年末の第7回NHK紅白歌合戦で大トリを務めます。
「たよりにしてまっせ」を最後に歌手業を引退する決意をいたしました。
笠置の歌手業引退公表。
昭和32年(1957年)早々に「歌手を廃業し、これからは女優業に専念したい」と公表しました。
後年にシズ子はこの決断に至った理由を以下のように述べています。
自分が最も輝いた時代をそのままに残したい。それを自分の手で汚すことはできない。
他の歌手たちが羨むほどの引き際のよさとなりました。その後、シズ子は「笠置 シヅ子」と改名して女優活動に専念しました。
笠置は器用な歌手ではなく、与えられた曲を歌うのではなく曲を選ぶ歌手でした。
笠置と服部がブギで到達した頂点は高すぎて、世間はその後もこのコンビにブギ以上の何かをやってくれると期待を持っていました。
が、それをなかなか実現させることができず笠置も服部も苦しんでいたのです。
ブギウギの福来スズ子。26週(最終週)「世紀のうた 心のうた」で歌手引退。
ブギウギの最終週です。25週の最後にテレビ画面をジーと見ていた羽鳥先生の表情が気になりました。
スズ子は羽鳥先生に歌手引退を相談しますが、受け入れてくれません。二人の葛藤を足立さんがどうのような脚本にしているのか?
とても気になります。
朝ドラですからハッピーで終わるとは思いますが、月曜から木曜の展開に注目したいと思います。
⇒2023年後期朝ドラ「ブギウギ」第26週(最終週)「世紀のうた 心のうた」のあらすじ(ネタバレ)と感想。
ブギウギ「福来スズ子」のモデル笠置シヅ子が歌うブギウギとは。
ブギ(ブギウギ)とは黒人音楽から生まれた8ビートのダンス音楽で、スウィング・ジャズやロックンロールなどで使われました。
笠置シズ子は身長150センチの小柄な体です。
ですが、目一杯開いた大きな口から発せられる爆発的な声量と全身を使ったダイナミックなアクション。
その姿でブギを激しく歌い踊った笠置シズ子は、敗戦直後の日本で一躍大スターに躍り出るのです。
それまでの日本人はほとんど直立不動で歌う歌手しか見ていません。
笠置シズ子の登場はセンセーショナルでした。焼跡で飢えていた人々は、笠置シズ子の歌と踊りから生きる活力を得ていたのです。
笠置シヅ子の代表曲。
1947年:「東京ブギウギ」代表曲
1950年:「買物ブギー」「オッサン」と連呼する独特な歌詞
でも、テレビではほとんど歌声を披露していません。今、笠置シズ子の姿を観るなら黒澤明監督の映画『酔いどれ天使』(1948年)です。
劇中で黒澤昭が作詞した「ジャングル・ブギー」を熱唱する姿は圧巻です。
ブギウギのTV作品。
笠置シズ子の性格は真面目で実直、礼節を重んじ、潔癖な人柄だったと言われています。
これまで何度もドラマのモデルとして登場しています。
2016年放送の『トットてれび』(NHK総合)では『ブギウギ』の主題歌「ハッピー☆ブギ」を歌う中納良恵が笠置を演じています。
ブギウギ「福来スズ子」のモデル笠置シヅ子と服部良一の関係。
笠置シヅ子と服部良一。
笠置シヅ子を語る上で外せないのが、師の服部良一です。
「別れのブルース」、「東京ブギウギ」、「青い山脈」など国民的ヒット曲を連発した作曲家で、息子の服部克久、孫の服部隆之も作曲家です。
孫の隆之は『ブギウギ』の音楽を担当しています。
『ブギウギ』では服部良一をモデルにした人物・羽鳥善一を草彅剛が演じています。
⇒草彅(なぎ)剛(キャスト)が朝ドラ「ブギウギ」で演じるは「羽鳥善一」
笠置シヅ子と服部良一の出会い。
服部と笠置が出会ったのは昭和13年のことです。
松竹楽劇団で笠置を見た服部は、迫力に満ちたパフォーマンスと3センチもあったつけまつ毛に魅了されたといいます。
笠置は服部のもとで才能を発揮し、スイング・ジャズに乗せて歌い踊る「スヰングの女王」として名を馳せます。
戦争に突入した後、「敵性歌手」として警察に目をつけられた笠置は、活躍の場を縮小せざるを得なくなります。
しかし、終戦後に笠置と再会した服部は、新たに活力に満ちたブギの曲を与え、ともにスターダムへと駆け上がっていくのです。
笠置の曲はほとんどが服部良一の作曲によるものであり、ステージでは服部の曲しか歌いません。
「別れのブルース」
服部が作曲した「別れのブルース」が大ヒットしていた淡谷のり子。
同じ師匠を持つ先輩にあたる笠置が空襲で焼け出されたときは、服部家に同居していたこともありました。
服部と笠置は「人形遣いと人形」と表現されるような切っても切れない関係だったのです。
『ブギウギ』で淡谷がモデルの茨田りつ子は菊地凛子が演じます。
⇒菊地凛子(キャスト)が朝ドラ「ブギウギ」で演じるは「茨田りつ子」
笠置シヅ子と芸人たちとの関係は。
笠置シヅ子と深い関係のあった芸能界の大物が三人います。
“ブルースの女王”淡谷のり子、“喜劇王”榎本健一、そして“歌謡界の女王”美空ひばりです。
服部良一をそれぞれ師に持つ淡谷のり子と笠置シヅ子はライバル同士でもありました。
“静”の淡谷と“動”の笠置は対照的なスタイルを持つ歌手でした。
ときに淡谷は辛辣に笠置を批評することもあったが、お互いを知り尽くした友人同士として晩年まで交流を続けます。
淡谷は笠置の家に遊びに来るたびに娘のエイ子に「お母さんに感謝しなさいよ」と言っていたといいます。
笠置は歌だけでなく、喜劇の舞台や映画でも大活躍を見せました。
笠置にとっての音楽の師が服部良一なら、喜劇の師はエノケンこと“喜劇王”榎本健一だったのです。
戦前から絶大な人気を誇った榎本が、初めてタイトルに二人の名前が連名で入る二枚看板を許した相手が笠置でした。
病に倒れた榎本の舞台を、超多忙だった笠置が急遽広島まで駆けつけて代演したこともあった。義理人情を大切にした笠置らしい出来事です。
“歌謡界の女王”として知られる美空ひばりは、天才少女として世に出た11歳の頃、「ベビー笠置」「豆笠置」というコピーをつけて、笠置のモノマネをレパートリーにしていました。
後に、笠置の持ち歌をめぐって二人の間には確執めいたものが生まます。
やがて「ブギの女王」の時代の終焉とともに、入れ替わるようにやってきたのが美空ひばりの時代でした。
笠置シヅ子はすっぱりと引退。
ブギのブームが下火になった昭和32年。
笠置は突然歌手廃業を宣言します。40歳を過ぎて、かつてのように歌い踊れなくなったことが原因だったと言われています。
その後、個性派女優に転身した笠置は、テレビCMやバラエティでも活躍したが、何度も起こった「懐メロ」ブームでは一度も歌うことはありませんでした。
笠置シヅ子の最期。
笠置はがんとの闘病の末、昭和60年3月30日、最愛の娘に看取られて息を引き取ります。享年70歳。葬儀委員長を務めたのは77歳の服部良一でした。
まとめ。
『ブギウギ』では銭湯の娘として登場した花田鈴子。その後、福来スズ子として活躍する姿でスタートしました。
昭和の戦前、そして戦中戦後をどのように描くのか。
モデルの笠置シヅ子を知る人も少なくなっていきます。令和の時代で生きる若者たちにはどのように感じるのでしょう。
この半年間、朝ドラを視聴しながら世の中の反応もウオッチしていきたいと思います。